2022.07.28【くくる糸満ブログ|糸満を歩く】

糸満市誕生

2022年は、復帰50年の節目を迎えましたが
糸満市の誕生は、その前年1971年12月に市制が施行されました。
当時、糸満町として旧糸満町、旧兼城村、旧高嶺村、旧三和村、の4町村が1961年に合併。
10年後に発刊された「合併十周年記念誌(糸満市誕生)」が糸満市立図書館に所蔵されています。本書を参照しながら、その当時を紐解いてみたいと思います。

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●糸満市市長挨拶文から

●旧糸満町長・旧兼城村長・旧高嶺村長・旧三和村長のあいさつ文から

●糸満市の歩みから

●当時の糸満新庁舎

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【糸満市長あいさつ文から】
(糸満市長あいさつ文)IMG_4501

「市政施行にあたって」と題して、当時の市長伊敷喜蔵氏による冒頭あいさつ文です。
待望の糸満市が誕生したことの喜びが綴られており、当時の様子がうかがえます。
要約しますと、

市政施行にあたって
糸満市長 伊敷喜蔵氏

「祖国復帰も確定し、いよいよ数か月内にその実現をみようとして、県の内外に復帰体制づくりが進められている時、当市の誕生を見たことは一層意義深いものがあると同時に、市の将来に大きな期待がかけられるようで、一層心のひきしまる思いが致します。

~略

糸満町と呼ばれたのは、明治41年4月。始めて沖縄に町村制が布かれた際、時の兼城間切り糸満村が間切りから分かれて糸満町と呼ぶようになったのが始まりで、実に明治から昭和に渡り60余年の間町民にも親しまれ、糸満漁師が東南アジアなどの海外にも喧伝しています。」

当時は、復帰が翌年に迫り糸満町から「市」へと昇格することで新たな行政機関へ期待感が形作られていたいように想像します。

(各合併前の首長あいさつ文)IMG_4106

そして、合併される前の各首長からのあいさつ文からも、当時の雰囲気を垣間見ることができますので、以下要約文です。

当時を思い出して
旧糸満町長 玉城武蔵氏

「糸満町の場合は、市町村合併促進法に基づいて、全琉において最初の合併町村となった。それだけに糸満町に寄せられた期待はものすごく大きかったと思う。しかし、合併にあたり幾多の障害もあった。特にグループ町村の議会の決議においてはある村では、一票の差でアワヤ合併も流産かとヒヤッとされる動転劇の一幕もあった。」

議会決議での一幕は、民主主義が機能していたことの表れともいえるのでしょうか。
ことばに感情が乗っていて、少しほっこりしましたね。

新糸満市として躍動の起点に
旧兼城村長 大城英昇氏

「祖国復帰が近づいた今日、合併の声があちらの町、こちらの村と聞かれるようになり。マスコミもそれを大きく報道し、この1,2年で沖縄の町村合併も軌道に乗るのではないかと思われる。

~略

当時、ケンケンガクガク口角泡を飛ばした議論もつい2,3日前のような気持がする。合併趣旨について反対するものは一人もいなかったが、合併時期が早々だとする意見が相当数居り、結局議会でも投票による議決をしたのであるが、いったん決議されてからは新糸満町のために与野党問わず、それぞれの立場で協力された。さらに、南部唯一の観光及産業都市として躍動するための産業振興5ヶ年計画も実現にまい進するよう祈念する」

こちらも合併時を回顧されていますね。
新しい糸満市への期待感がにじみ出ています。

(各合併前の首長あいさつ文)IMG_4107

合併10周年を迎え感無量
旧高嶺村 金城亀善氏

「思えば糸満町の合併は私にとって一生を通じ最も思い出の深い仕事であったからでもあります。

~略

発展的解消とはいうものの、議会で合併を決議された当時の事、10月1日に旧高嶺村役所の標札と糸満町役所高嶺支所の標札を取り換えたときの心境は、私ならではあじわうことのできない実に筆舌に言い表せない当時の思い出であります。以来、本町も10周年目を迎え、待望の新庁舎も完成し、内容外観ともに充実し本格的発展の時期に来た感がするのであります。」

やはり、無くなることの一抹の寂しさと、新しく変わることの期待感で
複雑な気持ちになっていたことがうかがえますね。

今後の発展を祈念 当時を偲ぶ
旧三和村長 大城正一氏

「政府より4日町村が合併しては如何との話がありましたので、いろいろと思考致したところ、自治体の発展は、自主財源を豊かに持つのが住民の福祉増進を計る根源であるので、合併がにより大きな自治体として発足すべきであると痛感いたし・・・

~略

今から考えますと、まったく夢のような感が致します。その後10年の間、超当局のご努力と町民皆様方のご協力並びに、政府のご援助により今日のごとく糸満町が発展いたしましたことを深く感謝いたします」

大きな自治体となることで、政府予算や住民サービスが向上することで、糸満市が発展していることを10年後の想いとして実感されたことが言葉に出るほどだったんですね。

(各合併前の首長あいさつ文)IMG_4502

糸満町合併10周年を迎えるにあたり
初代糸満町長(1961年1町3村合併時) 上原亀一郎氏

「ご承知のように、26年にわたり私たち沖縄県民を軍事占領支配し続けてきたアメリカは、その代行機関として琉球政府をつくり、民主主義をふみにじって行政主席の選挙すら拒否し、直接任命によって占領政策を遂行させ、市町村自治体をも占領支配を貫徹していくための下請機関=道具としての・・・

~略

このような歴史の激動期と期を一にする合併10周年を迎えようとするにあたり、すべての町民の手で、糸満町を民主主義の砦として発展させていくため町民の硬い団結を望んでやみません」

戦後、アメリカ軍による占領政策と対峙してきた首長としての気概を感じる言葉ですね。
この方はのちに沖縄県議としてもご活躍されたようです。大きな視野で政治をみながら、今につながる本土復帰への葛藤がにじみ出ているようなお言葉です。


新産業都市へ 限りない発展を祈念して
教育委員長 金城幸徳氏

「合併後、文化会館、青年の家、町水道、町道、農道、そのほか数多くの施設が整備され、町民の長年の懸案であった、新庁舎も完成を見ることができましたこと、町当局、そのほか関係者に対して心から感謝申し上げる次第です。

~略

来年、本土復帰で糸満町の課題は大きく広がって居ると存じ上げて、なお一層一致協力してともに町発展のため、意を深くしなければならないとする一人であります。」

合併から10年、インフラの整備がスピーディに行われたという印象だったようです。
新庁舎も出来上がり、いよいよ糸満市としての本格的なスタートを本土復帰と共に迎えるような、期待感があったように感じますね。

(糸満市新庁舎)IMG_4101

少し、今の新庁舎とたたずまいが似ていますね。糸満漁港の近く、現糸満市商工会付近にありました。

(当時の糸満市案内図)IMG_4104

真栄里に「松下電器予定地」とありますが、そういう誘致構想があったのでしょうか?

(糸満市が誕生するまで)IMG_4111

糸満市が誕生するまでの経緯が記されています。日本復帰直前に市への昇格を果たしたのは、当時の日本政府が市の要件を5万人としていたため、琉球政府の地方自治法の違いで、後押しされたという見方が有力です。

(糸満市の歩み)IMG_4113

IMG_4114

少し緩い概要ですが、旧1町3村がどのようなエリアだったかということが当時の目線でうかがえます。
いかがでしたか?
本土復帰を迎える前年に、糸満市ではこのような大きな潮流が起きていた。
反骨や希望、エネルギーを感じる記念誌ですね。

参照引用:糸満市立図書館「合併十周年記念誌(糸満市誕生)」